『神様に気に入られてはいけない。気に入られたら、そのまま天国へ連れて行かれるから』
この村で言い伝えられていた言葉の一つ。
山の神の信仰厚いこの村で唯一神に背くような言葉がそれだった。
そんな言葉を信じたことは無かったが、神の信仰には人並みに厚く育った俺は、小さい頃見た祠の前で笑う青年の存在が忘れられず、その影を追うように祠を護る仕事についた。
祠の世話なんてのは建前で、基本的には自営で細々と暮らす日々だがその生活に満足はしている。
ふと、あの青年を思い出しては懐かしむ日々を繰り返していたある日の事、あの青年によく似た男が俺を訪ねてきた。
「はじめまして。俺は若林と言うものです。地方での信仰や神仏について調査しているんですが」
「そうなんですか。俺はここを管理してはいるが信仰に詳しいわけではないですが……」
「俺が主に調べているのは生活の中でどれほどの信仰が浸透しているかなので、全然構いませんよ」
「そうですか……」
若林と名乗った男は爽やかな笑顔で帽子を取り、俺に挨拶をした。
都会から来たのであろうその男は、熱心に自分や村の者に信仰について聞いて回っては記事にすべく黙々とペンを滑らせている。
都会の人間なんて俗世に塗れて軟弱だと思っていたが、意外と真面目なようだ。
少しばかり感心しながらも俺は彼とは最低限の会話のみで日々を過ごしていた。
その頃だろうか、夢の中であの青年が少しずつ俺に近づいてきているのは。
最初は遠巻きに見えていた彼が、気づけば唇が触れ合うほど近くまで距離を詰めてきている。
けれども、会話はない。ただ黒い瞳で俺を見つめるだけ。
闇より深い漆黒の色に、俺は冷や汗を落としながら目を覚ます。
夢から覚める寸前に見せる、唇の動きに俺は恐怖すら覚えるようになっていた。
一体この夢は、何なのか。答えなどは出ないまま、一週間ほどの日にちが過ぎた。
「若島津さん、お疲れのようですが大丈夫ですか?」
「え……あ、…はぁ、大丈夫です」
「顔色が悪いですよ。少し休まれては?」
「ご心配はいりません、大丈夫ですから」
夢のせいで上手く疲れが取れないのか、身体が重い。
それを見てか、取材がてら祠を眺めていた若林に声をかけられ、取り繕うように答える。
しかし、足元がふらついてしまい、若林の胸へ飛び込む形で倒れかけてしまう。
若林は驚きつつもしっかりと自分を抱き止め、大丈夫ですか、と声をかけてくる。
顔を上げ、返事をしようとした瞬間、俺は寒気がした。
若林の瞳が夢で見た彼と同じ漆黒の色をたたえていたからだ。
白目のない真っ黒の眼。闇と呼ぶにはあまりにも暗すぎる瞳。
息が詰まる。夢で見た恐怖に近い感覚。震えてる俺に気づいたのか、目を細めて笑う彼が発した言葉は、俺の知ってる言葉ではなかった。
祠の近くで見つかったのは、若島津健のものと思われる靴の片方だった。
それから一ヶ月経っても、彼の行方はしれないまま。
彼をよく知る人が言うには、彼が行方不明になる前によく独り言を呟いていたと言う。
その独り言は人が発せるようなものでは無かったと、付け足して。
その時の若島津の瞳は白目が見えなくなるほど瞳孔が開ききっており、何度も何度も同じ言葉を繰り返しては、何かを撫でるような動作をしていたとも。
それがこの事件にどう関係するかは、不明だ。
『やっと会えたな、俺の愛しい人』