1.異変
南葛市に住む一部の子どもたちの間でまことしやかに囁かれている怪談話。
その怪談話の名前は、神様になった人の子。
神様に選ばれた子供は人から神へと生まれ変わる。
まず体の成長が止まり、その後人の心を無くして、最後には人の姿すら捨て天に還ると言う。
これだけだとただのおとぎばなしにも思えるが、人の形から神へと変わる描写が恐ろしいためか、この地域では有名な怪談話となっていた。
親も親で神様に選ばれて連れて行かれるよ!と子供を脅すもんだから、この地域に長く住む住人ほどこの怪談をこぞって使い、広めて回る。
勿論、若林もこの地域では有名な名士の子。
この怪談話は耳にタコができるほど聞かされていた。
しかし、この話に続きがあった。
ひとつは、神に選ばれた子供は自身の伴侶を選び、その人間と共に天に還る。
もうひとつは、本当に存在する話ということだ。
*****
「へぇ、そんな怪談が南葛市にはあるんだね」
翼はサッカーボールを膝に置いて、それを楽しそうに聞いていた。
翼自体はもともと外から来た人間なので、そんな話は知りもしなかっただろう。
ローカル的な話なので、地元じゃない人間が聞いたところで怖いなどと思う事はないかも知れないが、地元民にとっては恐ろしい話。
流石に中学生……それもそろそろ高校生になろうとしている俺達にとっては寝耳に水のような話だ。
そんなローカル丸出しの話を何を思って南葛市から遠く離れた海外の地で、石崎は話そうと思ったのだろうか。
とにかくだ、そんな話をする暇があったら、練習の一つでも……と説教をかましたくなったが、止めた。
きっと、言ったところで水を差されたとブーイングを飛ばされるのがオチだからだ。
実際、興味本位で聞いていた他のメンバーもなんだそれ!と少しばかり呆れている。
俺がどうこう言わなくとも周りが非難するだろうと考え、俺は席を立ち自分の部屋に戻った。
部屋に戻ればベッド近くに設置されたサイドチェストに置きっぱなしだったスマートフォンが柔らかな光を何度も点滅させてメールの到着を告げていた。
指先でスマートフォンをタップしメールを開いてみれば、母親から長々と体調の事やこちらの生活について問いかけるような内容が綴ってある。
俺を心配してから毎月この日になるとメールを送ってくるのだが、今日は何時もよりもかなり長い内容が綴られていた。
“体に変わりはないですか”
“最近熱っぽいとか、ご飯が美味しくないとかないですか”
“変な夢を見ていませんか”
心配性だな、と思うだけで終わるとはいえ、長々と綴られたメールの中身に少しばかり恐怖を覚える。
たしかにここ最近、食事をするのが億劫な日があったり、傷の治りが少しばかり早かったり、身長も体重も増減も無い。
変だとは思うが、そこまで変とも思えない。
不可思議だけど、不可思議とは思わない。
……このメールは見なかったことにしよう。
ため息を一つてから、削除ボタンを押してメールを消した。
そもそも俺がこの女のこんな下らない話に付き合う必要はない。
俺の事は俺がよく知っているのだから、この女に心配される義理はない。
そう思いながらスマートフォンの電源を落とした。
*****
「源三、食事の時、また食堂に来なかったな。どうしたんだ?」
「あ……いえ、その…あんまり食べたくなくて」
「ここ最近あからさまに食事を避けているように見えるが……、体調が悪いのか?」
トレーニングルームで休憩のため一息ついていた俺に話しかけてきたのは、見上さんだった。
どうやら調子が悪そうな俺を見かねて声をかけてくれたようだ。
別に何があったわけではない。自分としては何も変わらないと思っていた。
ただ、少し前まで感じていた違和感が更に大きくなっていることに自分自身も気づいていた。
だから、思い切って話してみることにしたんだ。
「そんな事はないですよ。体の調子はいいんです! ……ただ」
「ただ?」
「何を食べても味がしないんです」
そう話した瞬間、見上さんが目を見開いたのを、サングラス越しで感じた。
それはそうだ、普通なら味がしないなんて話をしたら驚くに決まってる。
けれども本当に何を食べても味はしないし、何かを噛み砕いたり飲み込んだりするのも億劫でたまらない。
喉も乾かないから何も飲まなくても平気だし、腹も減らないから食事をする必要性も感じない。
完全に可笑しいのは分かっているのに、それが当たり前なんだという認識しかおもえない自分がいる。
「見上さん……俺、おかしくなったんでしょうか? 腹が減らないことにも、喉が乾かないことにもなんにも感じないんです。俺はどうしちゃったんでしょう?」
「恐れていたことが起きたか……」
「恐れていたこと?」
「説明は後でするから、部屋に戻ってなさい。いいか、誰にも会わないように部屋に戻るんだぞ」
「……? はい、分かりました」
少し青ざめた様子の見上さんにそう言われ、不安を少し覚えながらも言いつけを守りトレーニングルームから出て自室を目指す。
誰にも会わないように、と言われたが今の時間だと皆外で練習しているから会うことはないだろう。
そう思っていたところに、通りかかった医務室の方から僅かな音が聞こえた。
誰かの話し声と、窓越しに見えた姿は若島津だった。
「ーーーあ」
どうやら練習中に軽く打ち身をしてしまったらしく、服を脱いで医者に背中や腹を見せている。
その姿を見て俺は何故か、美味しそうと思った。
ふわりとした黒髪も、鍛えられたしなやかな肉体も、相変わらず闘志に燃える瞳も。
どれを取っても“供物”として素晴らしいイキモノに見えた。
扉の前で立ち止まってしまっていた俺は、逃げるように自室へ戻り頭を抱える。
「若島津を見て、俺は何を……?」
若島津、俺の“つがい”……。
明らかにおかしい思考を持ち始めている自分に恐怖を感じながらも、たまらないほどに高揚感を覚えていた。