再構築
兄さん、と声をかければ兄さんは俺に笑いかけてくれる。
あの血みどろの姿は、嘘だったんだ。
兄さんはここにいる。俺を優しく抱きしめてくれる。
兄さん、ミゲル兄さん。俺のことは何でも分かってくれる。
俺の優しい兄さん。けど、兄さんは寂しそうで苦しそうで。
どうして、そんなに辛そうに笑うの?
俺たちが新天地を求め日本をたち、何ヶ月と月日流れた。
相変わらず浜本は戻る様子もなければ、俺を兄と思い込んでいて、近頃はますます依存するようになってきていた。
こんな関係、間違っていると分かっているのにうまい治療法も分からずじまいで、結局二人小さなサッカーチームを転々としながら金を稼いでは慎ましく暮らしていた。
「兄さん、兄さんはFWをやめたの?」
「あ…えっと、これからはDFもこなせるようにと思ってな。勿論、チャンスがあればFWも狙うさ。それに…お前のそばにいたいから」
「そっか。兄さんらしいや」
「俺がいたほうが寂しくないだろ?な、アントニオ……」
「……?…うん、兄さんがいると心強いよ」
仄暗い瞳に映るのは、俺の姿ではない。
俺の知らない誰かだ。
俺はもう、立浪誠ではない。ミゲルという男なんだ。
俺がミゲルを取り繕うたびに、浜本は嬉しそうに笑う。
話に耳を傾ければ一生懸命話して、ありがとうと微笑みかけてくる。
俺に兄を重ねて、幸せそうに笑うコイツを俺はいつの間にかひどく苦々しく思うようになった。
「兄さん、今日のご飯どうする?」
「俺が作るよ。冷蔵庫に余り物あったし……」
「俺も手伝うよ、兄さん」
「ありがとう、アントニオ」
冷蔵庫の中にある食材を適当に取り出しつつ、いつもどおりの会話を続ける。
数ある野菜を洗い、刻んだりして準備をしている時に、ふと浜本が不思議そうに俺を見た。
「……兄さん、確かその野菜嫌いじゃ……」
「あ、え……まぁ、もういい大人だからな、食べれるようになったんだ」
「そっか」
不思議そうにしながらも、俺の言葉を信じたのか再び調理の準備にかかる浜本。
持っていた包丁の動きを止め、あいつの背中を見つめる。
オレハ、ミゲルナンカジャ、ナイ……
包丁を持つ手に力が入る。
オレハ、タツナミマコト、ナンダ…
その背中に向けて包丁を突き立てようと構えてしまう
シン、オレダケヲミテクレヨ、ナァ……
どす黒いものを纏った思考に支配されかけていた俺は、慌てて包丁をシンクに投げ、震える腕を押さえて唇を噛み締めた。
その様子に食器を用意していた浜本が慌てて俺のもとへやってきた。
少し焦りを含ませながら、大丈夫?と問いかけてくる。
その瞳には勿論、俺は映っていない……。
「ミゲル兄さん、体調が悪いのか?なら後は俺がやるから」
「っ……大丈夫、だ……」
「でも、顔色が……」
「大丈夫……アントニオ、大丈夫だから……」
なんとか取り繕い、目線をそらして逃げるようにリビングを出る。
俺、今なにを……?…まさか、この手で、浜本を……?
いけない、俺もおかしくなり始めている。このままでは共倒れに……。
真面目に考えれば考えるほど、自分の愚かさが身に沁みる。
俺はこんな事をしたくてアイツと共にチームを抜けた訳じゃない。気を強く持たなければ……。
なんとか自分を戒めつつ、ソファーの上で大きくため息をついた。
「……兄さん」
微かに聞こえた浜本の声から逃げるように両耳を押さえる。
俺は兄さんじゃない。だけど、兄さんにならなきゃいけない……。
なぁ、シン。俺は何者なんだ?俺は何なんだ?
教えてくれよ……。
「兄さん、やっぱり顔色が悪いよ。……今日はもう早く眠ったほうが」
「いや……まだ、やらないといけない事があるから、お前は先に寝てていいぞ」
「…………、…………うん」
なんとか食事を終え、淡々と会話を返す。
きっと浜本が言うように、俺の表情は暗いのだろう。
俺は二人で通える病院を探そうと考え、少しばかり調べ物する事にした。
アントニオには眠るよう指示し、俺は自分の食器と彼の食器を下げて片付ける。
そんな俺に対して曖昧な笑みを浮かべて頷く浜本を尻目に自室へと戻った。
電話帳や、本などでこの付近にある病院を調べる。
俺とアントニオが壊れてしまう前に、早急に医者にかかるべきだ。
未来のためにも、今こそ一歩を踏み出す時だ。
あの時のようにもう弟を悲しませてはいけない。
ページをまた一つめくる。こんなに膨大なページ数があるのに、良い病院はなかなか見つからない。
……コーヒーでも持ち込むか、と席を立ったところで、軽いノックの音がした。
「……兄さん、熱心に何をしてるの?」
「アントニオ……あ、いや…別に……」
「……病院探してるの?やっぱり、あの事故の怪我が……」
「ち、違う。違うぞ、浜本。これは……」
「……ねぇ、兄さん。兄さんは……」
兄さんじゃないんでしょ?
そう話す浜本の目に、光が宿っている。
シン、お前は……。
「立浪……ごめんな。すまないと思ってる……」
「シン!……シン、俺が分かるのか?」
「ごめんなさい、立浪、俺は……」
「大丈夫だ、アントニオ。俺は大丈夫だ。なぁ、シン、俺が分かるのか?」
「分かるよ。分かるとも……」
「ああ…良かった……俺が分かるんだな?……」
俺は、立浪。俺は、ミゲル。俺は、誰?
ガチャン、とマグカップが落ちる音。
目の前に居るアントニオの存在が歪む。
愛しているよ、シン。本当は、愛していたんだ。
なぁ、俺は誰だ?お前を愛しているのに、このあいしてるはなんなんだ?
今度は俺が混乱した。
「ああ……やっぱり、兄さんなんだ……」
「……ぁ、違……俺は、立浪誠……」
「兄さん、俺ね、好きな人がいるんだ。立浪って言うんだ。でもね、兄さんが帰ってきた日から、立浪が消えたんだ」
「俺、は、ここに居る……俺は立浪、なんだ……!」
「兄さん、俺にはもう兄さんしか居ないんだ。お願いだ、ずっと俺のそばにいて」
「違う、俺は兄さんじゃない……!!」
アントニオの目からまた光が消えた。
引きずり込まれる、そう思った瞬間、逃げるように視線をそらした。
浜本は泣きそうになりながら俺の腕にしがみつき、小さく肩を震わせる。
立浪、兄さん、立浪、兄さん……
繰り返し俺と『俺』を呼びながら、涙を落とす浜本を俺はまた抱きしめる事しか出来なかった。
ドロドロの思考がこぼれ落ちる。
黒い淀みが胸でつっかえて、溜まっていく。
口から漏れた言葉を、なんとかかき集めて、捨てようとする。
けれども、うまくいかない。
「兄さん。兄さんだけは俺のそばにいてくれるね。……立浪、……俺だけのそばに……」
なぁ、浜本。お前は。
「愛してるよ、立浪。愛してるよ、兄さん。……兄さん、ミゲル兄さん」
俺は誰なんだ?教えてくれ、アントニオ……。
「――――――」
ベッドの上微笑むシンの笑顔は、ひどく恐ろしかった。
悲しそうな兄さん。辛そうな兄さん。
兄さんの中にいる人の声。
俺の中にある声。
全部が混ざって、暗闇になった。
ここに居るのは誰?ここにあるのは何?
ぐちゃぐちゃに壊れてしまった兄さんを抱きしめる俺は、ひどく幸せを感じていた。
愛してるよ、兄さん。